昭和五十四年一月三日 朝の御理解
御理解 第八十九節 「此方の道は傘一本で開くことができる」
教祖金光大神の確信の程がうかがわれる御理解です。絶対の信ですね。絶対信です 末永先生が南米に布教と言うことになりました時に、本部といろいろ折衝がございました時、サンパウロに行く事は賛同されましたけど、ビリグイというところはとても行けるところではないといわれましたですね。その当時の谷口という教務部長の先生が。という程しにあちらで道を開く事ができるところじゃない。それでもやはり語学とあちらの言葉を覚えて、そして初めの間は、他の職業でもさして頂きながら、ボチボチと布教にかかるような姿勢でいかなければ出来るところじゃないとう〈言って〉、私はまあそれう聞きながら、そんな事は問題じゃないですよというわけにはまいりませんけれども、帰りがけに、末永先生と二人で話して来た事はそんな事でした。 そんな事はないよと金光大神のお共をして行く、道を開く、合楽で信心の稽古をさして頂いておる者が、どこじゃ開ける、どこじゃ開けんという事などある筈がない。 先生もやっぱりそのつもりでおりました。それからずっ-と後にビリグイの布教を本部からいってまいりましたからやらせて頂いた。それこそどんな障害があっても、それこそ蹴散らしていくよう、それこそ、神尊天と行くというような気持ちでやらせて頂いたらいい。そういういわば、未知の国に、ほならとにかく私が一人まず行ってからというのではなくて、それこそ、家内子供引き連れての布教でした。私はそういう教祖の心の内容、状態というのもは、そんな状態だったろうと〈思うですね〉。
それからこの御教えは出来たんだと思うです。此方の道はアメリカでは開けないよとか、ブラジルじゃ駄目だよというようなもんじゃない。
言葉がわからなきゃ駄目だよというもんじゃない。土地の事がまずわからなければとても布教は出来ないよというものではない。此方の道は傘一本で開ける道だと、金光大神の信心をきちっと受け止めて、金光大神の信心を持って行くならば、どこだって、何処ででも、しかも傘一本で道を開く事が出来るぞという。その確信に満ちた教祖のこれはお言葉なんです。そういう信心を私共が頂いて、やはり同じ事を言ったり思うたり、又事実金光大神の言葉に嘘はないという、実態を知りつつあるのが今のブラジル布教です。南米布教です。
そこんところに人知を挟むと、とてもいけるところではないでしょう。いうなら、人間心を持ってしては出来る事ではないでしょう。
力のない間はどうしても人間心に頼ります。だんだん力が出来てまいりますと、そこに人間心というものをはずしていきます。もう、神様一心ですね。神様を信じきっての事なんです。
末永先生の場合は、親先生の一言を信じきっての事なんです。そこに私の信心があのように開けていく手立てが出来たんだ。此方の道は、傘一本で開く事が出来る。
教祖金光大神のそれこそ信心の根、確信の根を感じられる。大胆といえば大胆なお言葉です。ですから問題はそれを信じるか信じないかという事なんですよ。
だからやはり研究に研究、修行に修行を重ねさせて頂いて、間違いないと確信、私はいつも申しますように、私共は教祖のお言葉を実証して、実証者たらんとの願いを持たなきゃならん。
教祖はそげん言いよんなさるけど、傘一本じゃ開けまいというものではないわけね それを信じるという事にあるのです。そこでです、それが信じられる信心とは、どういう信心にならせて頂いたらよいか、又力を受ける事が出来るかという事なのです 金光教の信心は、否定もなければ肯定もないというふうに、それが金光教の信心だというふうに言われておりますけれども、これは教祖のお言葉のいうなら、否定、いわば教祖の言葉の肯定でなからなければ、私はほんな力おかげは受けられんし、力を頂かなければ、肯定出来ない事だと。
否定、そんな事はないというのは否定で、肯定というのは、成程そうだ、そうだろう、それが肯定です、合点するという事なんです。だから初めからこれを肯定する事は出来ません。教祖金光大神のやはり、いうなら、その信心の中に入って、その信心を本当に身につけなければ、成程、教祖のお言葉に間違いはないなあ、ここでも皆、親先生のいわれる事間違いはないよというのは、私は言う事を肯定しているのです。 だから肯定もなければ否定もないというのは、これは間違いだと、如何にもそれが金光教の独自性であり、独壇場のように言われております。けど私は教祖のお言葉の肯定なくして、いわば傘一本で道を開く事は出来ないと思うね。それこそ用心していかなけりゃいけん。とにかく、どげんなるじゃわからんから私一人で行ってみろう、そして都合よう道が開けるごとあるなら家内を呼ぼう、子供を呼ぼう。これはいうなら、初めから神様を半信半疑で頂いておるとしかいえない。
そういう意味で私は、末永先生の場合はね、それこそ親先生の言葉をそのまま信じて、肯定して行ったわけです。だからなされん事はない。あちらには持ち込みは出来ないようなものまで、持っていったけれども、それこそ堂々と持って行ったけれども引っ掛かる事もなかったというように、私は信ずる力が出来て始めて肯定という事になるのです。私は、教祖の御教えのすべてを肯定出来た時に本当に金光大神の信心を頂いたという事が言えると思うですね。
昨日は青年会の方達の年頭参拝で昨日三時頃でしたか、みんな帰って参りました。 無事に帰ってまいりました。それであちらで御祈念を、奥城に一緒に出て御祈念をさせて頂いた時に若先生が、頂いておる事が『ままよと思う心が、ままよになる』と頂いた。ね、・・・ままよと思う心がままになる。素晴らしい事だとなと〈私は思う〉神様のこの英知によるものは素晴らしいですね。
ままよと思う心になれよと、ままよとは死んでもまよと思えるという御教えがあります。だからままよという事は、もう死んでもままよという事なんです。
だから、ままになるのです。それ程しの事を信ずるから。合楽の南米布教がそうでしょうが。もう、ままよという心です。それはもし私共一家があちらへまいりましても、道が開けんなら、あちらでそのまま死んでもよいというような、覚悟の程がなからなければ行けることではない。ままよという心がままになる。そのままがです、神様を信じてのままよなんです。だからままになるのです。徳を受けるのです。
十二分の徳を受けようと思えば、ままよという心になれよと、ままよとは死んでもままよのことぞいです。だから初めから、のつけからそれができるはずはありませんよ。まあ、どうにもしょうがない、もう、神様の前に無条件で手をあげるより外はない、というような人達がいうままよとは訳が違う。
神様がわかり、いうなら親先生の信心がわかり、初めてままよの心が出る。それが本当なのです。親先生任せになっときゃよかといって、信じもきらんです、成程、おかげになりますけど、それは本当のものじゃないです。信じきるところからままよの心が出る。力を頂かなけりゃならん。三代様の奥城の御祈念の時に米は力と頂いたそうです。米は力。まあ、いわゆるままよという心が、ままになるという前提ないです 米は力、その力を頂こうともせずおかげだけを、頂こうとするところに、いわば肯定もなければ否定もないといった事になるのではないでしょうかね。
これによって、さあ頂こうという、力を頂こうという精進をしない、したり、しなかったり。米は力と言うことは、どういう事でしょう。米なら、米という字を分解すると八十八と〈書く〉。八十八、これは昔からそういうふうにいわれます、米を作るという事は大変な事なんだ、お百姓さんの手が八十八回もかかっているんだと。それで米という字は、大変な手がかかっているんだという事です。籾からそれから苗代に移して、又田植えをして、それまでには随分な手がかかる。それこそ、暑い炎天をものともせすに、いうなら、田の中にもはいらなけれはならない。虫が出来れば虫も駆除していかなければならない、ね。八十八回もの手が要る、その八十八回も手がかかって行くうちに米になるのです。米になるという事はそれが力になるのです。
それをですね、そういう力を頂かにゃ、何というても力を受けにゃという信心でないとです、ね、ようやく苗が出来た、田植えも出来た、また、中絶してほうからかしてしまう。ちゃんというならば、枯死状態になる。ほんなちっつとばかししか、楽は出来んという事になる、ね、それこそ、ヤアという心でです、ならひと夏ならひと夏かけてのです、いうならば信心辛抱であり、信心修行である。それこそ自分の信心というものを見極めさせて頂いて、改まりもさせてもらう、研きもさせておう、それが八十八回の中に入ってくるわけです。だから力が出来るんです。
何十年たとえ参っとっても、力を受ける為の信心でなけれは駄目です。いうなら〈実のつまった〉修行であり、実意丁寧を極めようとする精進、信心とは本心の玉を研くものぞと、信心とは日々の改まりが第一ぞと。その第一といわれるその改まりという事にです、いよいよ精進させて貰う。
光昭が頂いておるとじゃないですけど、気付くというとは、力を頂こうと一生懸命こうしてお参りしてくる。教聴、御教えを頂く。ああこげんこっちゃおかげの頂けんはずだと気付いたら、その気付いたところを改めていく事が築く事だといっております。城を築く【 】の築く、ああこれではおかげは受けられまいと思うたところを気付かせて貰って、改めていって、始めてそれが築く事になるんだ。それが八十八回繰替えされていくうちに、人間も変わるでしょう。もう、本当に心の眼を開いていく事も出来るでしょう。それでいて、初めて成程、米は力という事がわかります。
その頃にはです、いわばままよという心がね、どんな場合でも出せれるように神様を信じ、または、信じられる力を心の中に頂き止める事が出来るね。だから、この、神様と二人連れだからいわば、ままよという心が生まれてくる。
私は今朝、洗顔を、こちらに出て来る時にまたいっぺん口をゆすぐのです。洗顔したあとに奉仕着をつけた後に、そして鏡の中に写っている自分の顔を合掌するのです ああこの顔ならおかげ頂ける、わかるんです。今朝その時でした、『ラブシ-ン』という事を頂きました。皆さん好きな人とでも出会う時には、それこそ化粧のいっちょでもしなおして行くでしょうが。私が毎日、毎日、自分の顔を好きな人からこげな顔を嫌われちゃならん。それが私の毎朝の鏡の中に写る姿を拝む事なんです。
成程、私が三時半に出て来て、三時半そして四時にここに出てまいります時に、何か胸にいつもときめきを感ずる。ああ、成程、私は私のラブシ-ンと同じなんだとねいうなら、好きで好きで、または同時に好かれておる自分というものをです感じる。 神様も待ってござるなら、こちらも今か今かという心の状態というものが開けてくる。そこから合楽しあう世界、そこから生み出されるおかげ。ままよと思う心は、そういうもんでなければならない。でなからなければままよにはなれん。もう、あなたと一緒なら、それこそ地球の果てまでもね、とい事になるではないでしょうか。
だがら何処へ行っても、言葉はわからなくっても、いうなら、肌の色が違うておっても助かるんです。
成程、此方の道は傘一本で開ける道という道は、今日皆さんに聞いて頂いたようなものだとね。ままよという心を出せば、ままよというその心は、ままがままになる、おかげに繋がってくる。為には米は力だ、ね。米が出来る、いわば八十八回のまあ間に研きもすりゃ改まりもする。神様から認めもされる。神様を信ずる力も生まれてくる。そこではじめて、もうあなたとならばどこまでもというような、ままよという心が生まれてくる。そのままよというその心,そのものがままになるんだという事。素晴らしい事でしょう。ね!
ですから皆さん、まず米は力だと言えれる、まず信心を本気でね、力を頂く、すべてを力と頂く事の為の材料にしていかなきゃならん。そして本当の意味での傘一本を頂かなけりゃならん。それはままよとい心であります。
どうぞ。